会社概要 About us
荒川土手 - Arakawa river bank, Tokyo, Japan
株式会社ソフィアブレインは、コンピュータシステムの構築をメイン業務に掲げ、2003年7月に発足した完全な独立系企業です。
社長の間 匡弘(アイダ タダヒロ)が金融機関(日本銀行(7年)、農林中央金庫(5年)、みずほ銀行(4年)、三井住友銀行(3年)(敬称略))の大規模システムの構築に長年携わってきた経緯もあり、当社は金融関係のシステム構築を最も得意としています。現在は、システム構築のほかにも、投資関連業務、ネット関連業務も行なっており、わたし達はそれら3つの業務を重要な柱と捉え、日々邁進しています。

社長の経歴は少々変わっています。(以下は、数年前にとある雑誌からインタビューを受けたときの抜粋となります)

最初に言っておきたいのですが、僕は決して裕福な家庭の出身ではありません。むしろその逆です。そのことがバイタリティの源になっていたのかもしれません。

大学は工学部だったのですが、一回生の時にまったく関係のない分野で学生起業しました。
コンパ屋(コンパの斡旋業。京都は大学の街で数多くの大学が存在していますが、お互いの出会いの場がとても少ない。なので、その出会いの場をコンパとして提供・斡旋するという仕事。多くの飲み屋さんと提携し、コンパ屋を通したコンパならボトル1本無料等、さまざまなサービスを提供していただきました)とか、
雑誌(各種情報や宝探し(暗号を解読してゆくと宝が手に入る。京都を舞台にしたフィールドアスレチック的なもの))を発行したりしていました。1980年代初頭のころです。

コンパ屋はうまくいきました。しかし雑誌は失敗しました。文章を書き、校正し、広告を取り、書店においてもらえるよう交渉する、そんなことを不眠不休でほぼ一人でやっていました。続くはずがありません。無計画すぎでした。

結果、借金を返すためにバイトに明け暮れます。家庭教師や塾の講師はもちろん、居酒屋やバーなどの接客業、そして探偵も2年ほどしました。さまざまな依頼、ここでは言えないような依頼もこなしました(犯罪行為ではありません。念のため)。
バイクで尾行し、写真を撮るなどということは日常茶飯事な日々でした。

(続きます)

ユウ・・We have a cat name's "YUU" borned in 2008
その後社会人に。
最初のスタートは角川書店でした。角川書店ではASUKA(少女漫画)編集部に所属しました。

元来子供のころからマンガ好きで、少年ジャンプは創刊号から、マガジン、サンデー、チャンピオンも毎週読んでいました。妹のマーガレットやフラワーも毎週読む。そんなマンガ好きです。
トイレット博士、マタンキ団がとにかく好きで、それをネタにして教師をからかってはゲンコツで頭をぶたれるなんてしょっちゅうな日常でした。小学校、中学校はそんなことばかりです。毎日といっていいほど教師をからかい、教師にはめちゃくちゃ追いかけられては、逃げ回っていました。対象は教師のみです(年齢、性別問わず)。遊んでもらっていたのだと思います。

小学校3年生のある日のことなど、音楽でハーモニカの授業だったのですが、教師が指揮をとりみんなでハーモニカを吹くという授業で、それが退屈だった僕は、窓から差し込む朝日を自分の吹いている銀色のハーモニカに反射させて、反射した光を教師の目にわざと当てていたのです。僕がやっているなんてわかりっこないと高をくくっていました。しばらくすると、教師は指揮をとりながらゆっくりと教室を歩き始めました。子供たちを指導するためなのでしょう。

そんなときも僕はハーモニカの角度を変えながらずっと光を教師の目に当て続けました。そして教師が僕の横に来たとき、彼女(40歳ほどのけっこう怖い女性の先生でした)は突然僕の頭をゲンコツでぶったのです。近づいてくるときも、ぶった時も、去る時も終始無言でした。僕はもちろんびっくりしましたが、周りの同級生たちのほうがびっくりしていたかもしれません。
ぶたれたときに教師を見ると、彼女のゲンコツは折った中指だけを中から突き出させた特殊な形をしていました。痛点を一点に集中させる形です。彼女はよっぽど腹が立ったのでしょうね。そのときの僕は、痛いというより、なぜバレたのかということばかり考えていました。今から考えてみればバレないわけがないのですが、10歳の小学3年生の僕にはバレたことがとにかく不思議で仕方なかったのです。そんなイタズラ好きの本物のガキでした。でも悪意はなかったのです。ただただ遊びの延長線上の一種のつもりでした。

話がだいぶそれてしまいましたが、大学時代に雑誌を発行していたということもあり、マンガ好きだったということもあり、角川書店では少女漫画の編集者をしていました。
山岸涼子先生・美内すずえ先生・谷地恵美子先生・高口里純先生の担当でした。美内すずえ先生を探して吉祥寺の街を一日中歩き回るなんていうこともよくありました。

(続きます)

ユウ・・YUU is still energitic
角川書店退職後、僕は台湾に独りで行きました。誰も知り合いはいません。これからは中国語が重要になるはずだ、それなら現地で覚えるのが一番だろうという思いからです。

当時は民国二代目の蒋経国総統が亡くなったあとの戒厳令が解除された直後で、台北の師範大学近くの麗水街にアパートを借り、台湾には合計半年ほど暮らしました(ほかの中華圏も含めると一年ほどになります)。
今は台湾はとても安全になりましたが、当時は結構ワイルドで、夜中に一人で歩いていたときに四人組の強盗にナイフを突きつけられて殴られて金を盗られたこともありました。この体験は結構なトラウマとなり、3年ほどは歩くときは異常なほど後ろを警戒するようになりました。日本と同じ感覚で真夜中歩き回っていた僕も悪かったのです。

そんなこともありましたが、台湾の人たちはとても親切で、本当によくしてもらいました。今でも深く感謝しています。とにかく濃い一年でした。本の2、3冊なら余裕で書けるほどです。金持ちの家を守る機関銃を持った私兵たち、ディスコで入店を断られて仕返しのために拳銃を持ってきた男、高校生と老人が角材で血を流しながら殴り合っていた朝の光景、セブンイレブンのレシート(統一発票)裏の宝くじに何度も助けられたこと・・、当時香港や上海、北京にも行っていたのでその時のことも含めれば、もっと濃くなります。

台湾中を飛び回り、さまざまな場所に行き、多くの人と出会い、さまざまな体験をしました。
若くて無謀だった1988年のことです。

(続きます)

九十九里浜 - kujukuri beach, Chiba pref. Japan
帰国後は、エニックス(現スクウェア・エニックス)に入社。ドラクエ3が出たころです。
事業開発室に所属し、日々社長に向かって新規事業を発案しました。

九州から沖縄まで透明なパイプを海底に敷いて、その中に列車を走らせるとか、夜空に浮かぶ月に広告を映し出すとか、「実験くん」(実験セット)を売り出すとか、大きなものから小さなものまで全部で1000以上は案を出したと思います。
エニックスの創業者・福島氏は当時46歳と若く、ドラクエが社会現象になり始めていた状況でしたが、そういったことには決して満足はしないバイタリティ溢れる面白い方でした。

社長も案を出します。
「パン屋をする。ヤマザキの売上はすごいんだよ、間くん」とか、
「航空会社を作る。安い値段の航空会社のニーズは大きいんだ。ニーズが大切なんだよ、間くん」とか、
「運というのはね、使えば使うほどよくなるんだ。覚えておいたほうがいいよ、間くん」とか、いろいろなことを教えていただきました。とても感謝しています。
もう30年以上前のことになりますが、もしあのとき製パン会社とかLCCを始めていたら、今のスクウェア・エニックスはだいぶ違った会社になっていたのでしょうね。

エニックスでは、ENIX OF AMERICAという会社をアメリカのシアトルで立ち上げる業務も行ないました。立場はGeneral Managerとしてです。
シカゴCESにドラクエ3を出品して、アメリカ人バイヤー(REP)と交渉したり、任天堂アメリカと交渉したり、アメリカの会計士の方とか、デザイナーの方とかと掛け合ったりしていました。31歳のころのことです。

(続きます)

高島陸橋 - Takashima overpass bridge, Tokyo, Japan
エニックスを退社した後はフリーのSEになります。

大学時代、コンピュータに関してはFORTLANの授業しかありませんでした。技術系の計算ならそれでいいのかもしれませんが、僕はそれだけではまったく足りないと思っていました。
そして僕は当時出たばかりで高価だったパソコン「FM-7」(富士通)を買いました。言語はBASICです。データの保存は、音声としてカセットテープに保存するのです。音声でデータ保存するなんて信じられないでしょうね。フロッピーディスクが出現するまではそれが普通だったんです。FORTLANはパンチカード(穴の開いた紙)を何百枚も作ってデータ保存していましたから、それを考えればとても楽なんです。

当時は金がないうえに借金まであった貧乏状態でしたが、バイトを増やせばいいかぐらいの軽い気持ちで、あまり深く考えずに買いました。パソコンを持っている友達は周りには一人もいませんでした。とにかく高価だったのです。そして友人と二人で毎日ゲームを作りました。テーブルテニスとかスロットマシーンとか、途中でいろいろなイベントを発生させたりして、けっこう本格的に作りました。ゲームコンテストができたのはその5年ほど後のことでしたが、あのときゲームコンテストがあったらきっと人生が大きく変わっていたんじゃないかと思います。
とにかく「超」がつくほどのボロアパートで昼間はゲームを作り、夜は探偵をする。そんな生活でしたが楽しかったですね。

(続きます)

荒川土手 - Arakawa river bank, Tokyo, Japan
コンピュータ言語体系はあのときBASICを覚えたことが大きな基礎になりました。そのあとC言語を覚え、MS-DOSやUNIXを覚えていきます。全部独学です。

そういう基礎があったので、エニックスを退社した後にフリーのSEになるのは比較的容易でした。そしてそこから 日本銀行、農林中央金庫、みずほ銀行、三井住友銀行といった金融系のシステムに長年にわたって携わりました(敬称略)。株とか、ディーリングのシステムではありません。金融機関の内部システムです。

そして2003年に練馬で株式会社ソフィアブレインを起業しました。何度も法務局に行って定款の文書を作り(認めてもらえない文章があるのです)、公正役場に行って定款原本にハンコをもらい、そういったことも全部独りでやりました。
2004年に「大学入試合格法」という本を(株)学研から出版したのですが、その原稿も同じころ書いていましたので
、とても忙しかったというのをよく覚えています。

その後、2006年5月にHチャート、2007年1月にDチャート、2008年6月にDチャート225を発売し、現在に至ります。
起業後はもちろん様々なことがありました。中小企業とはいえ、やはりいろいろなことがあります。とにかくあっという間の約20年でした。
自分自身に関しては、寿命というものもあるので、あと20年は生きられないかもしれませんが、頭と身体が働く限りは今後もさまざまなことに挑戦し続けたいと思っています。

(社長のインタビューの抜粋は以上となります。お読みいただきありがとうございました)

里山 - satoyama , Tokyo., Japan

■会社名 株式会社ソフィアブレイン
SOPHIA BRAIN CO.,LTD
■代表取締役 間 匡弘
TADAHIRO AIDA
■住所 (配送部)
〒198-0003
東京都青梅市小曽木2丁目66番3号
TEL 0428-74-9180
■問い合わせ先 ●専用問い合わせフォーム ⇒ お問い合わせフォーム
●ダイレクトメール ⇒ info@SophiaBrain.com

※インストールの際にご不明な点等ございましたら、電話でサポートさせていただきますので、ご安心ください。
■Site Address https://www.SophiaBrain.com
■E-mail info@SophiaBrain.com
■設立 2003年7月 (founded)
■事業内容 コンピュータシステムの設計、開発、製造、販売及び輸出入
コンピュータシステムのコンサルティング業務
ソフトウェアの企画、開発、製造、販売、リース及び輸出入
コンピュータ通信技術の研究、開発、販売及び運用
インターネットを利用した各種情報提供サービス
情報セキュリティに関する技術の研究、開発、販売及び運用
投資業
投資顧問業
■取引銀行 三井住友銀行 光が丘支店
■取引口座 普通 0799091
■名義人 株式会社ソフィアブレイン


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